ふたたび  |  AoyamaKazuki

青山 一樹

 

ふたたび

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「ただいまぁ」
 語尾が少々間延びした、川辺隆一のいつもの帰宅の言葉である。
 フリージャーナリストの隆一は、主に自動車関係の試乗レポートや評論のようなものを書いて生計を立てている。今日は幕張で行われた新型輸入車の発表会に行き、西にだいぶ陽が傾いたころ、等々力にある自宅兼オフィスのマンションに戻って来た。
 もうすぐ三十路を迎えようとしている隆一は、この2DKのマンションに独り暮らしなので『ただいま』と言ったところで、誰も『お帰り』とは言ってくれない。だが、どうしてもこの言葉が出てしまう。
 マンションと車の鍵がいっしょに入ったキーケースをダイニングのテーブルの上に放り投げ、エアコンのスイッチを入れた。5月ともなれば、昼間外出して戻って来ると、部屋の空気

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がムッとするほど熱く淀んでしまう。窓を開けるのは部屋の中が埃っぽくなるので、隆一はあまり好きではない。
 仕事部屋に入り、パソコンを立ち上げメールのチェックをする。プロバイダのサーバからメールがダウンロードされている間に、キッチンへ行って冷蔵庫から良く冷えたミネラルウォーターを持ってきた。
 パソコンの画面を見ると、十数通のメールが来ていた。仕事関係のメールの他にもメーリングリストでのお知らせメールが多数あった。
 たいていはこの類いのお知らせメールは読み飛ばしてしまうのだが、その中にひとつだけ『人生をやり直したい貴方へ』という件名に隆一の目に留まった。
「ほう、出来ることならやり直したいね」
 そう言いながら、隆一はミネラルウォーターをひとくち飲んでメールの内容を読んでみた。

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 何やらエジプトの王家の墓から発掘された“時空の石“と云われる、アクアマリンに似た石をペンダントにした物で、それを身に付けると自分の深層心理の中に埋もれている『やり直したい過去』に、時空を越えて誘(いざな)ってくれるのだそうだ。しかも抽選で1名様に無料プレゼントすると云う内容であった。
 何処のインチキ会社かとメールの送信元を見てみたが、文字化けをしているのか象形文字のような記号が並んでいて読み取れない。
「そんな都合のいい物があるか、アホッ!」と、言いながら削除ボタンを押そうとした隆一の手が止まった。
 ふと窓の外を眺めると、都会の夕焼け空に金星がひときわ鮮やかな光りを放っていた。  
 隆一はしばらくの間、鮮やかなオレンジ色から濃紺の空へと移り変わって行く、東京の空をじっと眺めながら何かを考えていた。そして、何かを決心したかのようにパソコンの画面へと向き直った。
 申し込みはこのままメールを返信すればいい

と書いてあった。住所も名前の記入もいらないようだ。きっとこの手の会社には、クレジット会社などから流出した個人台帳があって、このメールもそれを元に送られているのだろうと思った。こういう顧客データはかなりの高値で売買されているらしく、流出元の会社の社員が逮捕されるという記事が時たま新聞に載るが、再発防止を叫ぶわりには後を断たないのが現状である。
「ま、試しに送ってみるか」
 この会社がどれだけの数のメールを配信しているか分らないが、抽選で1名だからまず当る筈もないだろうと、冗談半分で返信してみた。
 そう、文字通り冗談が半分、あとの半分は−−。

 隆一は、先月から女性誌で始まった、車の特集記事を任されていた。毎月の誌面に、二十一世紀のエコドライブをテーマとした女性の車選びの記事を書いている。エコドライブと云うテーマ上、どうしても軽自動車から千三百ccく

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らいまでの小排気量の車がメインとなってくる。隆一はあまりこのクラスの車が得意ではないのだが、不安定な職業なので定期的に仕事があるのはありがたいし、雑誌社と繋がりを持っておけば他にも仕事が廻ってくる可能性が高い。
 近年は「——に優しい」というフレーズが大流行りで、猫も酌子もこのフレーズを使いたがる。まして女性誌ともなれば、この現象が顕著である。本意ではないが、隆一もこのフレーズをよく登場させて原稿を書いている。編集者や女性読者に受けがいいからだ。
 西麻布にあるディーラーに、来月号の原稿に使うため借り受けていた新型の千三百ccの広報車を返却し、預けていた愛車のポルシェ911で恵比寿へと向かった。薄暗くなってきた通りにキセノンバルブのヘッドライトの閃光が鮮やかに広がる。
 恵比寿駅近くの駒沢通り添いに車を停め、牛丼屋に入った。
「いらっしゃいませ」

 アルバイトの女の子の元気のいい声が店内に響いた。
「いつもの」と、言いながら隆一はカウンターの椅子に座った。
 この店の店長は車好きで、年代物のスポーツカーに乗っている。以前、隆一が広報車のフェラーリに乗って来た時、店長の方から話しかけてきて、それからすっかりこの店の常連客となった。いつもポルシェやフェラーリを横付けして、牛丼を食いにくるのは隆一くらいのものだと店長によく言われる。
「はい、お待ち。並と味噌汁」
 隆一の目の前に”いつもの”定番が出された。
「昨日うちのやつがさ、入院している友だちの見舞いに信濃町の病院へ行ったらさ、見かけたんだってさ」
 この店長はやたらと語尾に『さ』をつけて喋る。初めのうちは耳障りだったが、今ではもう慣れた。
 牛丼を食べながら、隆一は目だけ店長の方に向けて黙って聞いていた。

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「ほら、美紀ちゃんだよ。そっくりだったんだってさ。あんまり似てるもんだから、本人かと思ったってさ」
 その名前に隆一の動きが一瞬止まったが、味噌汁をひとくち啜ると、また黙々と食べ続けた。店長の話しはさらに続いた。
「赤ん坊を抱っこしてたんだったてさ。ほんとに残念だよなあ、隆一と美紀ちゃんの子供を見てみたかったよなあ」
 店長に悪気はまったくないのだが、その言葉は隆一にとって死の宣告と同じくらい重く辛い一言だった。
 隆一にとっては思い出したくない、余りにも辛く悲しい想い出だ。出来るだけ平静を装おうと、必至に牛丼を食べているふりをした。もう味などどうでもよかった。一秒でも早くこの場から離れたいという気持ちで、熱いお茶で一気に胃袋へ流し込んだ。
「あ、気に触ったらごめんな。別に悪気があってさ……」
 隆一の顔色を見て、さすがに店長も悪いと

思ったらしい。
「ごちそうさま」
 カウンターにお金を置くと、隆一は店を出ようとした。
「そんなに急いで何処か行くのか?」
 店に入ってからまだ三分も経っていない。よほど急ぐ用事でもあるのかと、店長は隆一に聞いた。
「取材の待ち合わせがあってね。じゃぁ」
 そう言うと、隆一は逃げるようにして店を出た。
 隆一は、自分でもどうしていいのか分らないくらい混乱していた。とにかく何処か遠くへ行ってしまいたい。たった今耳にした現実が後ろから追い掛けて来て、押し潰されてしまうような圧迫感を受けながら、隆一は車をとばした。第三京浜から首都高速を抜けて、ひたすら本牧へと向かっていた。

 川辺隆一と三条美紀が出逢ったのは、四年前のクリスマスイブの日だった。街中がクリスマ

スで浮かれているこの日、隆一は試乗レポートに使う車の写真撮影に参加していた。
 本牧のショッピングセンター横にある公園での撮影が終ると、そのままその車を借り受けた。翌日からまる二日間の試乗をして、それをレポートして原稿を書く。
 車は新型のポルシェ911だった。伝統あるポルシェ社の威信をかけて、古き善き時代の空冷エンジンから水冷のものへと変貌を遂げた、新時代ポルシェの幕開けに相応しい仕上がりを見せていた。
 若い頃から憧れていたポルシェには、ひときわ強い思い入れがある。この車と過ごせる珠玉の二日間だ。隆一は上機嫌であった。
 写真撮影の為、隆一はまだ昼食をとっていなかった。午後二時を少しまわった時間なので、大抵のレストランは休憩のため準備中の札を掲げていた。仕方なくまわりを見渡してみると、ファーストフードの店の看板が目に入った。
 店の前に車を停め、レジカウンターでチーズバーガーとコーラを注文した。千円札で支払い

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をし、釣り銭を受け取りながら何気なく見上げたカウンターの女の子と目が合った瞬間、隆一は稲妻に打たれたかのように全身に衝撃が奔るのを覚えた。実際には一秒に満たない時間だったのだろうが、隆一には廻りの時間が止まってしまったかと思えるくらい、長い時間動けずにいた。
 我に返った隆一は釣り銭をポケットに押し込むと、足早に二階へ行き窓際の席に座った。さすがにこの時間になると空いていて、隆一の他には制服を着た女子高校生がふたり、楽しそうにおしゃべりをしているだけだった。
 店の前に停めてある車を見下ろしながら、隆一はチーズバーガーを頬張った。コーラの冷たい咽越しを感じながら、さっきの衝撃はいったい何なんだろうと思った。人生の喜怒哀楽がいっぺんに押し寄せて来たように、嬉しくも切なくなるような心臓の高鳴り。
 釣銭を受け取る時に、彼女の水晶のような澄んだ瞳の奥に瞬く星のような輝きを隆一は確かに見た。その瞬間、金縛りにでも掛かったかの

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かまいなしに店の外へ走り出た。
 ところが、先程まで車を見ていたはずのあの娘の姿が見当たらない。あたりを見回してみてが、何処にも彼女の姿はなかった。念のために店の中も覗いてみたのだが、やはり何処にも彼女の姿はなかった。店の人に聞いてみればいいのかもしれないが、先程から隆一の行動をいぶかしげに睨んでいる従業員に聞けるはずもない。隆一は小さな溜め息をついて車に乗った。
 彼女を捜索したところで、それがいったい何になると言うのか。見つけたらいったい何と言う?
『一目惚れしました』ってか?
 そんなの変人扱いされるに決まってる。ばかばかしいのは承知の上で、隆一の心の中の格闘は続いた。
 顔を見たければまたこの店に来ればいいだけだ。きっと彼女は今日は早出だったんだ。ちょうど就業時間が終って帰るところだったんだろう。また逢えるさ。やっとのことで心の中の格闘を治めた隆一は気を取り直して車を発進させ

ように動けなくなり、隆一の魂は彼女の瞳の奥に吸い込まれて行った。
 ——ひと目惚れ?
 ——赤い糸?
 ——運命の人?
 どれも恋愛物語では使い古された言葉だ。ふと、少女マンガの世界に迷い込もうとしている自分がおかしくなり、カップの氷と一緒にその気持ちを噛み砕いた。
「な、訳ないよな……」
 ところがその言葉の粒子が目の前の空気に溶け込んでしまわないうちに、窓の外を見ていた隆一の視界にその娘の姿が映った。店のユニフォームではなく私服に着替えているのだが、隆一には即座に分った。間違いない、さっきの娘だ。しかも店の前に隆一が停めた車を眺めている。
 隆一は電光石化の速さでトレーを片付けると、二段飛ばしで階段を駈け降りた。その騒々しい音に、カウンターにいた従業員がいぶかしげな顔で隆一を睨んでいたが、そんなことはお

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がグルグルと動き始めた。あの笑顔は果たして自分に向けられたものだろうか?
 もしかすると、自分のすぐ後ろに彼女の知り合いがいて、その人に向かって微笑んだのだろうか?
 きっとそうだ。そうでなければ勘違いした自分は、テレビ番組のコントのような羽目になる。
 隆一は恐る恐る後ろを振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。では、ほんとうに自分に微笑んでくれたのだろうか?
 この期に及んでもまだ、隆一には確信が持てなかった。
 隆一は彼女に向かって、自分を指差して「俺?」と、問いかけてみた。緊張のあまり完全に声が上ずっていた。
 彼女は返事をする代わりに、隆一の目の前まで歩み寄って「さっきお店にいらっしゃいましたよね。あの車で」と、周囲の人の迷惑にならないように小声で言いながら、店の前に停めてある車を指さした。
 隆一は心臓の鼓動が一気に高まっていくのを全身で感じていた。もしかすると、彼女にもこの音が聞こえているのではないかと思えた。
「あ、はい」
 辛うじて返事をすることが出来た。

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た。
——もう一度会いたい、会って話しがしてみたい。
 数十メートル走ったところで本屋の看板が目に入った。今日は毎月読んでいる雑誌の発売日であるのを思い出した。ちょうど車を停めるスペースが空いていたので、そこに車を停めて本屋の中に入った。お目当ての雑誌を手に取った後、幾つか他の雑誌も捲ってみたが、特に興味のあるものは無かったので、手に持った雑誌だけを買おうとレジに向かおうとした。
 その時、隆一の切なる願いは早くも叶えられることとなった。彼女が目の前に立っていた。二度目の稲妻に打たれた隆一は、彼女の瞳をじっと見つめたまま動けなくなった。彼女の透き通った瞳の奥に、隆一は夜空に輝く星に似た光りを見ていた。
 彼女の方も隆一から目を反らさずに、じっと見つめ返してしる。先に動いたのは彼女の方だった。隆一に向かって、優しく微笑んだ。
 それをきっかけに、止まっていた隆一の思考