ケンチクノ BCCK | matsuzaki
ケンチクノ
BCCK

目次3
■2009年10月17日(067)〜10月25日(051)
うちのマック01〜うちのマック12
(かつてアップル信者だった男の歴史、ほか)
■2009年10月26日(050)〜11月1日(045)
池袋の計画〜博多の計画2
(建築設計について考えていること1)
■2009年11月2日(044)〜11月10日(033)
建築と映画づくりの関係〜開口部の設計について
(建築設計について考えていること2)
■2009年11月12日(031)〜11月16日(024)
建築家という職能〜クライアントとの人間関係
(建築設計について考えていること3)
■2009年11月17日(023)〜11月21日(017)
建築設計の仕事の現場〜建築という仕事
(建築設計について考えていること4)
■2009年11月22日(016)〜11月24日(012)
集合体としての都市の風景〜超高層はいらない
(建築設計について考えていること5)
■2009年11月24日(011)〜11月27日(006)
スケッチを描く〜理想の建築
(建築設計について考えていること6)
2009年11月28日
002
2009年11月28日
目次2
■2009年7月5日(227)〜8月3日(135)
大安吉日〜建築家なしの建築術78
(住宅の木造工法に関するある提案)
■2009年8月4日(134)〜8月7日(124)
フラーの教え〜建築との出会い
(なぜ建築をはじめるに至ったかの話)
■2009年8月8日(123)〜8月14日(106)
ワガ ケンチク ノ 80'S〜ワガ ケンチク ノ 21c.
(建築にまつわる自分史のようなもの)
■2009年8月18日(100)〜8月22日(095)
鉄コン筋クリートの世界は来るか〜時間の価値
(都市、建築、歴史、みたいな話)
■2009年8月23日(094)〜8月30日(087)
「新しい東京」〜都市の様相から見えるもの
(東京という都市を見て思うこと)
■2009年8月31日(086)〜10月11日(073)
世の中は変わるか〜写真の嘘
(政権交代の日から、随筆というか雑文)
■2009年10月11日(072)〜10月12日(069)
麦の近況1〜麦の近況4
(文字通り、麦の近況)

ケンチクノ
BCCK
003
2009年11月28日
004
ケンチクノ
BCCK
目次1
■2009年2月19日(396)〜3月14日(371)
序文〜言葉。そして自然
(建築にまつわるエッセイと52の言葉など)
■2009年3月19日(370)〜5月12日(342)
民家は、きのこ、である。〜日本の木材を使う
(現場日記と木造建築に関するエッセイなど)
■2009年5月15日(340)〜5月23日(324)
麦という名の家族〜麦の仕事3
(我家の猫の話など)
■2009年6月4日(309)〜6月12日(292)
縁側〜煙出し
(日本の伝統的な木造建築の話)
■2009年6月13日(289)〜6月23日(259)
鴨居〜逆打ち工法
(最近の自作建築の話など)
■2009年6月23日(257)〜6月28日(248)
1989年〜2007年
(過去の自作建築の話など)
■2009年6月30日(243)〜7月5日(228)
BC3000年〜そして適正技術へ
(建築史私観として)


005
建築に関するとりとめのないことをここに書きはじめもう9ヶ月以上になるけれど、言いたいことが尽きないので我ながら驚いている。よくもまあ、なのである。
ところがこのBCCKも最終ページとなってしまった。これ以上ページ数を増やすことはできないそうである。
もう少し終わり方を考えていればよかったのであるがなにしろ思いついたことをただそのまま書いてきただけなので、そういう構成を考えるまでには至らなかった。
この日記のような文章を書き始めたのは、昔の友人であり尊敬する荏開津君がBCCKSで日記を書いているのを知り、真似してみたというのが正直なところである。
そろそろ記憶力も衰えはじめる年齢に達し、これまで経験してきたこと、頭に浮かんでいたいくつかの想念を忘れないようにメモっておこうかとも思った。
世に知られている間違った建築家というイメージにはいつも閉口させられている。建築雑誌などでは知ることができない本当の建築の仕事も紹介したかった。
人にものを教えるような偉い人間ではないが、日本の大学ではろくな教育がされていないことには大きな危惧を抱いている。ジャーナリズムもあまりに無知なのだ。
そんなでたらめな日本の建築の世界でおよそ語られることのなかった恥ずかしい話ばかりであるが、格好いい建築家気取りの本を読むよりは役に立つはずである。
おわりに
ケンチクノ
BCCK
2009年11月28日
006

結局、建築の設計というものに完全なものなどない。しかたなく出来てしまうものだ。それを少しでもましなものにする最大限の努力が設計者の責任かもしれない。
会社に入って最初の研修で、赤坂の土地にマンションを計画するという課題が出た。建築など公害でしかないと思っていた当時の自分はなにも考えられなかった。
そこで、その土地を全部掘り、井戸のような形にして建物を地下に埋めてしまった。屋上には元々あった森をそのまま残した。なにもないかのような風景が戻った。
その案は特になんの評価もされなかったが、コストがかかる、とだけ言われたような気がする。現実的でないと。現実的でない建築を考えられたことに満足した。
もちろん実際には膨大な土壌搬出が必要だから、そのほうがむしろ公害かもしれない。そんなことより、建物が風景のなかに突如として出現する公害がいやなのだ。
もし仮に、どうしてもつくらなければならないのなら最大限ひかえめにすべきであろうと考える。一番の成功は見えない建築をつくることだ。究極はそれしかない。
見えているのに見えていないような自然な存在が理想の建築である。土地に同化した集落のような建築だ。
個性的な、刺激的な、空間の質を一変するような強烈な建築をつくるのが建築家であるとすれば、自分はまだ建築家ではない。これから先もなれるかは分からない。
2009年11月27日
ケンチクノ
BCCK
理想の建築
ケンチクノ
BCCK
ランダムということ2
「モザイク」というものは昔からいい感じのランダムを生み出す仕上げ方法のひとつである。パネルやガラスをランダムに色分けするデザインは広く行われている。
そういうデザインの建築のいい実例は世界中に無数にあるので、日本でも近いうちに大流行するだろうと思う(いや、すでにもう流行の最中にあるかもしれない)。
これは内部空間との整合性という問題はあるけれど、均質な建築となんら問題なく両立可能な表層のデザインであるから、どこでも簡単に採用されうるだろう。
ここで、感じよくランダムにできるかどうかが、このデザインの成否にかかっている。リピートするパターンを感じさせないようにすることがまず大事である。
またそれらが変化させうるものであることも必要ではないかと思う。ずっと同じでは自然とは言い難い。気温や音や光で変化することができればほぼ完璧に自然だ。
たとえば集合住宅の各住戸の照明が蛍光色であったり電球色であったり白色であったりするランダムさ加減の面白さが、なにか可能性を感じさせてくれる。
どんな照明デザイナーのライトアップよりも、団地のバラバラな色温度のランダムさ加減のほうが豊かな感じがする。人智を超えた、操作不能のデザインなのだ。
植物という要素も、自然にランダムないい感じを出すことができる。これを使わない手もないだろうと思う。
2009年11月25日

007
ランダムということ
008

2009年11月25日
自然に出来たようなランダムな様相はたしかに魅力的だと思う。本当に自然に出来ていれば言うことはない。わざとつくったランダムは見え透いていてつまらない。
いかにして自然なランダムをつくるか、ということはつねに考えている課題だ。簡単な法則性があってはダメだけど、まったくデタラメなものは設計しようがない。
内部空間に何か不確定な、一定でない状況が存在して
いれば、それをそのまま外観に表出させればいい。まずはその内部にばらつきをつくらなければならない。
アパートメントハウスなどであれば、各住戸を多様な間取りにして、それに応じた多様な開口部を設計して、それがそのまま外部に現れてくればいいのである。
しかしそうそううまくはいかない。建築はできるだけユニバーサルにつくって使い勝手にフレキシビリティをもたらすことも重要な使命のひとつだからである。
むやみに固定的なものをつくりこんで空間を不自由にすることは建築のつくりかたとしては褒められたものではない。均質性というものがじつは大事なのだ。
この矛盾する状況をどうにか打開したいと思うのだがいまのところいい方法は見つかっていない。頭で考えるとすぐパターンができてしまう。それではだめなのだ。
結局、自然界の造形に勝るものはないということだ。
微妙なゆらぎになんともいえない豊かさを感じるのだ。
ケンチクノ
BCCK