STUDIOVOICE 403 Digest bcck  |  STUDIOVOICE

Text by Hiroyuki Taguchi

Photography by Ryosuke Kikuchi

 

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ANA的コスモポリタニズムとエイベックス

 
 
 
飛行機に乗る機会は少ないが、どちらかというとJALよりANAのほうが好きだ。名前に自国名の日本語読みを宿したまま世界各地に国際線を飛ばすようになったANAのほうが、ちょっとしたたかでいいなと思ったからだ。だから、かつて浅田彰が「Jポップ」「J文学」「J批評(東浩紀らが該当するらしい)」を「ドメスティックに閉じこもった上に、その閉域の歴史に触れるでもなく、つまり〝伝統の日本〟と断絶した〝骨抜きのJapan〟程度の環境にしがみついている」として、それを「J回帰」と名づけて非難した記事を読んだときはなるほどと思った。だが今回の特集にあたって同記事を読み直してみると、当時とは違った感想を持ったので、それをここに記したいと思う。

010

Photography by Ryosuke Kikuchi

Text by Hiroyuki Taguchi

Jポップは、そのネーミングを考案したとされるJ-WAVEが開局(88年6月)、その後Jポップ界に君臨するB'z、DREAMS COME TRUEがともにデビューする(それぞれ88年9月、89年3月)などの出来事が昭和の終わり/平成の始まりに集中していることから、平成とほぼ同時にその歴史をスタートさせたと言われる。たしかに同じころ、戦後昭和と並走しつづけた〝歌謡曲〟は勢いをなくし、89年6月には美空ひばりも鬼籍に入った。限られた紙幅の中では詳述できないが、大衆音楽の王座をめぐる歌謡曲とJポップの交代劇は性急で、ゆえに両者はあまり混交せずに断絶することができたのではないかと思う。宇多田、ミスチル、ビーイング系など、歌謡フォークの節回しを甦らせることでカラオケ需要に対応したJポップが私は苦手なので、私的バイアスが多少入った認識かもしれないが、少なくとも、現在のJポップを名実ともに代表するエイベックス系音楽と、90年代中盤におけるそれらの登場の仕方を思い出せば納得いただけるはずだ。なお、エイベックスの前身企業の設立もまた、昭和の終わり、88年4月のことである。

 

Photography by Ryosuke Kikuchi

Jポップが歌謡曲と断絶しているゆえに浅田彰が苛立ったわけではないだろうが、そこに不満を持ったリスナーは当時もいまも少なからずいるだろう。ではそこで失われた歌謡曲の歴史とは、どれほどのものだろうか。歌謡曲はたしかに素晴らしかったが、当然日本の伝統に根ざした国粋音楽であったわけでもなく、かつ、「洋楽のエッセンスを〝取り入れる〟」などということが「自国文化の領界」という心理的フィクションが成り立っているゆえに言えた、時間的にごく限られた時代の産物であり、だからこそ「歌は世につれ、世は歌につれ」と言ったときの「世」とは時間的にも空間的にも狭い〝日本〟でしかなかったはずだ。そう考えたとき、浅田が皮肉った〝Japan〟という言葉が決して歴史を欠いた言葉ではないことに思い当たる。マルコ・ポーロが書いた「Cipangu」(ジパング)が記録に残るかぎりで最古の語源だが、それは中国人が「日本」を中国語読みした音を聴き取ったものだったという。

Text by Hiroyuki Taguchi

 

009

Photography by Ryosuke Kikuchi

かつて私が「好きだ」と言ってANAに見いだしていたのは、昔懐かしコスモポリタニズム的美学でしかない。「Japan」という言葉はもっと混血的だ。つまり、それを「J」と略して「我らが音楽」の名に冠することはANAよりもずっとしたたかだ。そんな、したたかなる平成時代に急成長を遂げたエイベックス・グループは、06年、北京にエイベックス・チャイナを設立した。最近同社の役員に会う機会を得たのだが、彼はこう言った。「いま外資に牛耳られていなくて、自己資本で海外拠点を作れるレコード会社はうちだけですから」。国内メジャーのレコード会社の多くが外国資本を受け入れていく中、たった20年で日本の大衆音楽のスタンダードを打ち立て、いま海外進出を本格化させるエイベックス。かつて、たとえば浜崎あゆみに対して「私的なばかりで時代を表象していない」という批判があったが、これは間違いだ。彼らの送り出すJポップは「世につれ」ていないのではない。おそらく、「世」の指す幅が空間的にも時間的にも広いのだ。エイベックスのJポップはタイムラグを経て、いま大陸で響きはじめている。今後中国に渡航することがあったら、そのときはJALに乗ってみようと思う。

008

 

Text by Hiroyuki Taguchi

Text by Maki Mizukoshi

Photography by Ryosuke Kikuchi

 
Jポップの社会、Jポップの時代

 
 
昭和が終わり、中国でも東欧でも人は動き出した。「ザ・ベストテン」が最終回を迎え、オウム真理教が弁護士一家を殺害。手塚治虫死去――。1989年は戦後生まれの子供たちを育ててきたユースカルチャーはその役目を終えた。
強大な力で重石をされた冷戦構造に「守られた」なかで、イデオロギーと優雅に結びついて子供たちの情操に多大な影響を及ぼしたユースカルチャーは、その体制を絶えず打ち壊そうと呼びかけながら、その構造を揺りかごにもしていた。
戦後民主主義教育と資本主義の成熟が、いったんは弱りきった政治活動を「市民運動」のなの下に再び呼び返したかに見えた80年代後期だったが、「冷戦終結」はさらに「市民」を「消費者」へと変えるきっかけになった。
忌野清志郎について、何人もの論者が「戦後民主主義の申し子」だと話していたのを聞いた。88年に「カヴァーズ」の発売中止という憂き目を見た清志郎は、翌年、ザ・タイマーズとなって政治や社会への言及を強めた。

 

007

Text by Maki Mizukoshi

Photography by Ryosuke Kikuchi

世界中が一瞬だけ、政治の季節にもどったかのようだった。けれども左翼は市民に薄められ、ウーマンリブはフェミニズム・マーケットに取り込まれ、政治リベラルは消費経済を受け入れ、タイマーズはワイドショーと赤旗をネタ元に歌を作った。
名目上、「勝利」を得た「市民社会」は即座に方向転換を図る。「ザ・ベストテン」に取って代わった「イカ天」から「アンダーグラウンド」なライヴハウスの空気がテレビを席巻。たまの「さよなら人類」が年間チャートに入り、フリッパーズ・ギターがデビュー。80年代の国鉄とNTTの民営化、電波法改正は日本人の移動と交信を自由にするかに見え、その実、地域格差をふくむ分裂、固定化へと流れた。「渋谷系」という言い方はクールなローカリズムよりは土臭い特権化へとつながり、渋谷での消費行動が専制君主のように全国を支配するようになる。ライブハウスのテレビへの解放はすぐに消費され、90年代序盤、「愛は勝つ」あるいはZARD、WANDS、B'zなどビーイング系ポップスだけがさながら大量生産時代に戻ったかのようなシーンを形成する。このとき、ポップとは名ばかりのコマーシャルな音楽を指すJポップという単語が流布し始めた。

006

 

 

005

Text by Maki Mizukoshi

Photography by Ryosuke Kikuchi

不況にもかかわらず、というか、不況だからこそ、音楽は安価な娯楽になった。カラオケもね。ということで、「カラオケで歌って気持ちいい」メロディを開発した小室哲哉の時代となる。「渋谷系」の特権的な響きは、渋谷的消費文化で育った、親世代から東京生まれの土着トーキョーキッズの縄張りをさらに地固めしていた。
対外的にはおとなびた「アダルトチルドレン」や「援交少女」たちは、受益者負担と自己責任と能力主義の予感がおとなたちを孤立させる社会に放り出されていた。思春期の情緒を吸収してきた「ユースカルチャー(サブカルチャー)」という緩衝地帯を失い、ダイレクトに大人社会(汚れた世界@ユースカルチャー)と接することを強いられた少女たちの心を、小室哲哉は代弁した。Jポップとは、このポスト戦後民主主義リベラルが独立(孤立)を強いた新しい子供たちのための音楽だったと振り返られるだろう。
97年、バブル後の緩やかなデフレ社会でモラトリアムを謳歌していたフィッシュマンズが「宇宙 日本 世田谷」でその終焉を暴露。

004

 

99年となり、いよいよ日本国民がネオリベの経典を暗証し始めた。
同年末に「オートマチック」で彗星のように現れた宇多田ヒカルは、怒りも失望も乗り越えてブラッシュアップされたアダルトチルドレンであり、「LOVEマシーン」(モーニング娘。)は、90年代の沈滞と閉塞と怒りを笑い飛ばし、01年小泉内閣熱烈歓迎ムードを用意した。
98年にはこれまでの歩みを苦さを伴い振り返る「夜空ノムコウ」でをヒットさせたSMAPは、03年にはさながら国民歌となった「世界にひとつだけの花」で孤立させられた個人を肯定して見せた。わずかに浜崎あゆみが90年代的少女の回収を続け、一青窈や元ちとせ、平井堅、中島みゆきらが、置き去りにされる人々を癒したが、好景気のなかで、Jポップ(国民的文化)というよりももっと周縁に、音楽が求められる場所は移りつつあるのではないか。

Photography by Ryosuke Kikuchi

Text by Maki Mizukoshi