スカトロジー・フルーツ  |  gosho.tn

毒想日記

どこに逃げてもいずれ回収されてしまうのではないか。そんな気がしているからです。私の場合は、未紀のように、透けるほどの白い肌に黒い下着と包帯で自動人形さながらのいたいたしさと脆さを感じさせることはできません。私の肌は浅黒く、下半身に重心をもつ安産体型は脆さとは無縁でしょう。しかし今となっては、四〇年以上前に書かれたこの小説、とりわけゴシック趣味、というよりはロマネスクな未紀の姿が先頃のゴスロリブームを兆していたかに見えるように、今後何がポルノグラフィ的な対象になりえるのか、私には全く予想もつきません。スカートではなくズボンをはこうが、ヒールを脱いでスニーカーを履こうが、着ぐるみを着ようが、スッピンでいようが、肌を黒く焼こうが、眼鏡で顔を隠そうが、髪を短く切ろうが、肥満体になろうが、風呂に入らずに体臭を漂わせようが、料理を覚えずにいようが、ぞんざいな口をきこうが、格闘技を身につけようが、貞淑に反して誰彼なく股を開こうが、時流に反して「純潔」を守ろうが、そうやって反動的にどんな趣向をこらそうとも、いずれ性癖やフェティシズムの名のもとにポルノグラフィの一種として成立してしまうのではないか。逃げても逃げても、いとも合理的に性的な対象として消費されてしまうのではないか。そんな囚われの身になっている気がする

八月六日

 諦念しています。あなたに渡された本を読んで、あなたが私の何をも見ていないことに愕然としました。けれどもう、あなたのことは諦めています。ただ言わせてください。あなたには私だけでなく、あなたが崇拝してやまない未紀のことも見えていないのではないでしょうか。あなたは未紀に憧れ、私は未紀に憧れなかった。けれども、未紀を弄んでは都合のいいように扱っているのは、あなたの方ではないでしょうか。私はたしかに、貧民を嫌悪しきった前々世紀的なバタ臭いスノビズムに埋もれた、こんな女がいるものかとたじろぎました。私に未紀の素質がないだけに、私自身が未紀に蔑まれているように錯覚したとも言えましょう。一方では、未紀の周囲にしつらえられた意匠はいまや目新しくも前衛的でもなく、未紀の造形は反動的な少女像の典型の一種として定着している気がするのです。あなたがいとも安直に未紀に欲情したように、未紀はもはや通俗的な、消費されやすい少女像に成り下がってしまったということかもしれません。でも、実のところ、未紀が本来どのような少女だったのかを想起する以前に、すでに私は徒労感に襲われています。少女たちは立ち現れては次々に消費され、

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八月七日

 私は去ります。私はどこまでも遠くへ去りたいのです。アルベルチーヌとしてではなく。いえ、私にはレズビアンの関係性を仄めかすような、連れ立つ友人もいませんし、そんな雌猫どうしの睦み合いこそ、あなたを満足させるポルノグラフィと化してしまいますもの。あなたの視界に入らないところまで、あなたが私に焦点を結べなくなるほどに遠く遠くにまで逃げることが、きっと私の闘いなのです。あなたは私に本を手渡した。四〇年以上も前に書かれたこの『聖少女』という小説、ここでかたちづくられた未紀という名の幻影を、いまだに実用可能なファム・ファタルのモデルとして、あなたは私に差し出したのだった。野獣のように奔放で、腐りかけの果実のように淫靡で、独裁者のように理不尽で、悪魔のように退廃的で、治癒することのない傷病者のように悲惨な、もはや典型的なファム・ファタルの未紀。そのことがあなたを充足させたけれども、私をひどく迷わせた。私は未紀になれないし、憧れない。未紀とは一体ナニモノだったのでしょうか。未紀は田舎者や貧民をひどく嫌う。ただそれは階級意識というよりも、これは青年Kの言葉ですが

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のです。なぜなら最近私を苦しめていた悪魔のような疾患、「痔」のことをお話したときもそれを肛門性交と結びつけて、卑猥な誘いを執拗に囁く人がいました。映画の題材にまでなり「美人薄命」などと謳われた白血病や、たしかに話題として憚られる婦人科系の疾患でもなく、品性下劣なイメージでせめて笑いの種になるかならないかという「痔」ですらポルノグラフィックに響いてしまった。また円形脱毛症になればなったで、冗談のように艶やかに丸く禿げ上がった症状が私の新たな私の恥部として機能してしまい、こちらの予想もしていなかった「舐めさせてほしい」という懇願を導いてしまったのでした。自分の属性の何がそういった欲望を誘発してしまうのかわからない。だからもう、「私を見て」などとは言いたくないのです。まちがって「本当の私を見て」などと言ってしまっては、ひどく表層的なゲームが永遠に繰り広げられるだけなのではないかという徒労感が襲います。ならばいっそ「私を見ないで」と言ったほうがましです。私は「私」を擬態するのです。私は未紀に対して、すべてが媚態でできている女だと早まった判断をしそうになりました。それは間違いではないかもしれない。でも、より正確に言うのなら、彼女の極端な媚態は、未紀による「未紀」の擬態なのだと気付きました。

「食べかけの食器、蓋のあいた鍋、他人の生活の垢で黒びかりする家具調度のすべて」にあるような、生活臭全般、そこに透けて立ち現れる世間性を拒否していたのではないでしょうか。さながら黙契を結んで羊の仮面をかぶる集団を、威圧するように、刃向かうように、無視するように、未紀は豪奢な孤高を望みます。その願いは殊更に自分は優性民であること、まるで王家の種族であるかのような演出的性質を未紀に装填させたのでしょう。その女王からすると愚かで醜い世間は「学校ヘハキチント行カセナクテハイケマセンヨ」というありていな常識を未紀に投げかけ、かつ「だいたい女の子が学問上の知識を習得することになんの意味もみいだしていない」という矛盾した不文律をもあびせる。集団における不文律の抑圧こそ、未紀が逃走しつづけたものだったのではないでしょうか。「学校に行って大勢で教育をうけるなんて賤民のすることだわ」、「いったい、ひとはなぜ教育をうけなければならないのかな? あたしを世のなかの役にたつ人間にしたてようと、みんながよってたかって汚い手でなでまわすことにあたしはほとんどがまんできません」。未紀の言葉は至極苛烈で、優民意識など到底実用的ではない。でも、その実用性の欠落、「役にたつ人間」からどれだけ遠くへ行けるかこそが、

未紀の優雅さの証しになっていたのではないでしょうか。現在では、ある意味で見慣れてしまった未紀のような悪徳の少女像も、はじめてあらわれた当時は大変な衝撃だったのではないかと推測します。未紀は孤としてあり、自分以外を大胆に敵にまわすことで、聖性を獲得したのだといえるかもしれません。青年Kは、かつて没頭した学生運動と自らの貧しい生い立ちを振り返って、こう呟きます。「こいつは、存在論的な怨みか、存在的な怨みか? 残念ながら、ぼくの場合はたぶん、存在的だ、ぼくは自分の存在的な卑しさのなかでのたうちまわっていたにすぎなかったのだろう」。青年Kがわざわざ「ぼくの場合は」とことわったように、未紀という存在自体が、ひとつの存在論的な問いとしてあるのではないでしょうか。それに気付いたとき、未紀の嘘が書き連ねられた日記、ひいては『聖少女』という小説が、少女の媚態ではなく、意志なのだとわかったのです。未紀は「未紀」に擬態して、悲痛な嘘を重ねます。一度ノートに記述されてしまった嘘に合わせて現実をまっとうしようとする様子は、未紀が陥った疾患、アムネジア=記憶喪失そのものです。受け入れがたい世界と相対するとき、少女はアムネジア=記憶喪失になるのです。あなたはそれを痛みの感受だと、あるいは背伸びした韜晦と思ったようですが、

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毒想日記

毒想日記

あたしには平和な下降と衰退がおとずれる。幸福。少しずつ死んでいくこと。あたしはおちついた女の声で、駅マデヤッテチョウダイといいました」。『聖少女』を読み終わった今なお、私は解かれることのなかった装いのなかにいる気がしています。でも、そろそろ私も去りたいと思います。だってほら、この日記だってやはり私とは程遠く、過去を次々に塗り替えていく日記だったのですから。どこまでも遠く、あなたの焦点が結ばないところまで。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(『KAWADE道の手帖』倉橋由美子〜夢幻の毒想)

むしろアムネジア=記憶喪失の実現こそが少女の意志だったのではないでしょうか。とはいえ、それはあまりにも素直で傷つきやすいおこないではありませんか。現に未紀はアムネジア=記憶喪失を完遂することができず、自ら嘘を暴くようなノートもまた残しているのです。しかし、このノートもまた、果たしてどこまで本当かわからない。未紀が嘘を重ねているかもしれないし、青年Kによる創作かもしれない。未紀は青年Kと共にいて、「ぼくとの結婚」を受け入れているのだそうです。かつて青年Kは未紀という少女像への祝言のように、対極的な五〇代の主婦をこのように痛罵していました。「主婦であり母親である以外のなにものでもない女、つまりもっとも不愉快な生き物である」。これは未紀の存在を補強するためにいわしめたようなものでしょう。その未紀がいまや夢遊病者のように結婚を口にしているといいます。未紀はどこへ行くのでしょうか。かつて未紀はこんな白昼夢のような光景を日記に綴っていました。「結婚。数年後の旅行。地中海、パルミラ、アルジェへ行くこと。本物のライオンを撫でること。それからあたしは三人以上の子どもを生み、その子をライオンの仔のように鎖でひいて街を散歩するでしょう。車に乗りました。子どもはあたしを喰いあらして高貴な猛獣に成長し、

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光ってしまえ、飛んでしまえ、白く溶解してしまえ、毎日が感電死だ、バスガス爆発だ、なにが「帰ろう」だ、「帰る」だなどと感傷的だ、「『帰る』だなどと感傷的」というのが感傷的だ、感傷など最低だ、「感傷など最低だ」なんて最低の感傷だ、もう本当に厭だ、うちに帰りたい、自分のベッドで眠りたい、その前に空腹をなんとかしたい、でなければ眠るどころか猛烈に暴れてしまいそうだ、なにが食べたい、なんでもいい、メロンソーダとこしあんドーナツとフライドチキン、安い甘味と粗悪な油を、体に入れたい、すぐ食べたい、即物的に欲しがってやる…………………………だったら店先の蛍光灯に引き寄せられてバチバチと盛大に死んでいく薄羽蜻蛉よろしくコンビニにでも立ち寄って帰りでもすればいいだけの話ではないかと思った瞬間、「どうぞ」と敷居は低かった。
 
 初めての来店に七串の宣告を受ける。七種類の臓物。
「ゆっくり出します」
 薄暗い店内、ほかに客はいない。余計な物が只一つとてない小綺麗な空間に二〇インチで浮かび上がる巨人対横浜戦の光。ここにだけ声がある。バックボードの打順が映し出される。誰一人として知っている選手がいない。

 「前にいらしたことはありますか? それともウチははじめてですか?」と無骨に問われ、ああ終わった、こんなことばかりだ、出会う前から断られてばかりいる、蛍光灯のもとではこういうことは起きない、この店が白熱灯だから仕方ない、秘された部分は見るなということだ、見ていい部分は予め決められている、見ることが許される人も限られている、選ばれているんだ、計られているんだよ、計測というよりも演出か、いや演出的本性は誰にだってある、それを否定する気はない、見せたいように見せればよい、問題は今にも追い出されるということだ、来てはいけないところへ来てしまったのだ、断られるのにはいつだって恥辱がつきまとう、断る方よりも断られる方が後ろ暗い、疚しいことなどひとつもないのに、もはや叱られている気分、反射神経が「ごめんなさい」でできているのだ、ずっと断られてばかりいる、ずっと謝ってばかりいる、ここのところ「ごめんなさい」の連続だ、もはや「生まれてきてごめんなさい」だ、とにかく厭だ、拒絶される前に回れ右、一秒でも早く帰りたい、帰ろう、どうせあれが日常だ、いざ蛍光のほうへ、露出狂空間でけっこうではないか、集合した商品が均質に白く照らし出され、物が物であることすらやめ、無機質に発光する、あの光、ハレーションに包まれたなら、

ホルモンから考えない

スカトロジー・フルーツ

 
 
 

ホルモンから考えない

ホルモンから考えない

見知った名前がひとつとしてない。見たことのない人たちが互いに接触を避けるかのように離れて立っている。ボールを投げ、ボールを打ち、走り、ボールを捕り、また投げる。反復。知らない名前を連呼するアナウンス。どよめく顔のない群衆。ボールはまた投げられ、打たれ、飛ばされ、捕まえられる。ゲームは滞りなく遂行される。ひたすらに続けられる。はじまりも終わりもわからない。誰も知らない。由来もルールもわからない。弛緩した時間が留保されたままの空間。この知らない人たちはこれを永遠にやっているのではないだろうか。

スカトロジー・フルーツ

 
 
 
 

2月 4月 6月 8月 10月 12月
隔月最終土曜日発売

五所純子
「スカトロジー・フルーツ」

ノニータ
「パンモロ」

 
 
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花代
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「愛(かな)し、日々」

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スカトロジー・フルーツ
  • 著者:五所純子
  • 編集:松村正人
  • 制作:天然編集部
作 成 日:2010 年 02月 19日
発   行:五所純子
BSBN 1-01-00031679
ブックフォーマット:#560

 
<著者略歴>
1979年生まれ。文筆業。
 
 
写真=塩田正幸

五所純子(ごしょ・じゅんこ)